ザビ物語

聖なる夜
彼は、とても小さな家族の一員として、でもとても大きな愛を受け生まれた。
でも、彼は生まれたばかりのころに、こんなにも望まれて生まれてきたことを、
ずっと知らずにいた。
そう、もう一度彼の記憶が遠く、幼い、あのころに戻るまで。

ザビ物語

「新しい家族ができちゃった。」
そう奈美が言ったのは、花芽吹く春を迎えた頃だった。
小野は一瞬戸惑ったが、素直に奈美に気持ちを伝えた。
「ありがとう。」
---ありがとう?
そう、小野はありがとうと伝えた。
そこにあったのは、感謝の気持ちだった。
「ありがとう?」
そう繰り返した奈美は少し嬉しそうにはにかんでいた。
辺りに笑い声かこだました。
小野と奈美との家族の中に新しい小さな命が授けられたのだった。

月日は、疾風のように流れ、奈美のおなかもだいぶ目立つようになった。
奈美が自分のお腹に話しかけている。
小野もできるだけ時間を作り、奈美のそばにいた。
どこかのテレビで流れていた、赤ちゃんを見て、二人は未来を語り合った。
街を歩いていても、子供に目が行くようになった。
洋服も、雑貨も、食べ物でさえも、子供のことばかり考えてしまう。
奈美も楽しいそうに笑っている。
彼女の笑顔を見るだけで、小野は幸せを感じていた。
そう、この瞬間を幸せというんだ。

しかし、幸せというものはそう長くは続かなかった。
奈美が臨月を向かえ、入院することになった。
小野はできるだけ病院に顔を出すようにしていた。
あの日も小野は仕事を終え、急いで病院へ向かった。
そう、あれは雪がシンシンと降り積もった日だった。
辺りはひっそりとして、夜月も雲の陰に隠れ、静まり返っていた。
今日の仕事は、一山先の事業所まで商談に行っていたため、
帰りの山道はかなりきつい。
チェーンを履かせ、山道を急いだ。
そろそろ産まれそうだったからだ。
心が前へ前へと急かされる。
知らず知らずにアクセルを踏む足にも力が入る。
ピカッ
それは一瞬にして起こった。
カーブはまだ先だと思っていたのに、もう目の前に現れていた。
小野は慌ててサイドブレーキを引き、ハンドルを大きくきった。
車は言うことを聞かず、大きく揺れていた。
その衝撃で、小野は外に飛ばされた。
「ウッ」
体は、二転、三転し、数メートル先の道路に投げ出された。
投げ出された四肢は、道の上に積もった雪がクッションとなり、小野はほとんど無傷だった。
---助かった。
しかし、事はそこでは終わらなかった。
相手車線からやってきていた車が、小野を避けようとして崖のほうへ向かって堕ちて行ってしまった。
キキキーとブレーキの音も空しくその場に響いた。
ザザザと、木の葉舞い、土煙が散り、そして炎が舞い上がった。
ボウン。
小野が、崖のそばへ這い寄ると、車は赤々と燃え盛っていた。
それは、黄昏のよりも暗い闇の中に、ただただ血のように紅く。

「男の子です。」
看護婦さんが、奈美にそう伝えたのは朝日に近い夜だった。
奈美はびっしょりと汗をかき、四肢はぐったりとしていたが、
その報告を聞いて、笑みが零れ落ちた。
奈美は小野がいないから心細かったに違いない。
この報告を、早く小野に伝えたかった。
「すみません、主人はまだ・・・」
何度も奈美は小野から連絡がないか、看護婦さんに尋ねた。
看護婦さんは、ゆっくりと首を横に振るばかりだった。
そう、奈美はまだ知らなかった。
小野が崖の上で何を考えているかなんて。
そう、まだ知らないでいてほしかった。
奈美にはもう少し、幸せなままでいてほしかった。
少しでも長く。
永遠に消えない幸せのように。。。

「細君によろしくゆってくれ。」
「はい。ありがとうございます。」
数時間前の取引先の社長の言葉が、急に小野の頭をよぎった。
そう、小野は奈美の元へ急いでむかっていた。
今頃は、奈美のそばにいて、しっかりと手を握ってやれていたものを。
子供という、新しい希望に胸を躍らせながら。
しかし、現実はそうではない。
小野の目に映るもの、ゆらゆらと立ち上る黒煙。
めらめらと燃え盛る炎。
そこには、幸せや希望というものはなく、あるのは絶望だけだった。

小野が奈美にあったのは、2日後のことだった。
もちろん、あの夜、小野は仕事が遅くなって会いにいけない、そう伝えておいた。
奈美は残念がっていたが、それどころじゃあない。
小野は、作り話をしながら、自分に言い聞かせた。
小野は後悔しても償えない罪を犯してしまったのだ。
そんな小野が幸せな気分に浸っている場合ではない、と。
奈美は小野の顔をみると、涙をこぼした。
一番必要なときに、小野は奈美のそばに居てやれなかった。
奈美も不安だったのだろう。
初めての経験。
しかし、奈美は一言も小野に皮肉を言ったりはしなかった。
そのことが、小野には苦しかった。
---これから、もっとひどいことをおまえに言わなければならない。
そう思うだけで、小野の心は引き裂かれるように痛んだ。

チッチッチッ
時が音を立てて進んでいく。
甘く切ない家族の時間。
ガラスケースのあちら側には、小野と奈美の息子がいる。
奈美はもう、母性本能が目覚めたのだろう。
毅然とした母親の顔をしている。
「あなた、今日はお仕事はよろしいの?」
「あぁ、休みをもらったんだ。」
そう、奈美は少し訝しげな表情を見せたが、すぐに嬉しそうにはしゃいだ。
---この子には、罪はない。
小野に、罪がある、それだけのことだった。

期限は1年間。
これは、小野がお願いをして得た最大限の時間。
一刻でも長く、奈美のそばにいさせてやりたかった。
その長さの分だけ、悲しみが大きくなったとしても。
その間、小野は気が気じゃなかった。
奈美になんて打ち明けようか、と。
「あなた、まときが笑ってるわ。」
子供につけた名前はまとき。
奈美の母乳を必死に口に含む姿をみると、
母と子の強い絆が結ばれていくのがよくわかる。
小野は、まときの頭をやさしく撫でるだけだった。
「なぁ、まとき。お前は、俺を許してくれるだろうか?」

一年間など、これほど早く過ぎたことはないだろう。
小野は、あの日から一度も笑ったことはなかった。
日一日が過ぎていくたびに不安になり、小野の心はやつれていった。
いや、まときの前で作り笑いはしてみるものの、心の中から笑顔になったことはない。
奈美は、そのことを心配している風でもあった。
しかし、小野が抱えている悩みを、まだ奈美に口にはしていない。
まときは、屈託のない笑みを浮かべている。
外は、一年前のように冷たい風が吹いている。
雪も、あの時と同じように、シンシンと降り積もる。
小野は、部屋の中で暖をとる奈美とまときを見やった。
もう、時間は残されてはいない。
小野は、その重い口を開いた。

「まぁ!?」
なんてこと、そういうと奈美はその場に崩れ落ちた。
奈美の肩は微かに震えている。
小野は、自分の肩掛けを奈美にそっと被せた。
奈美は、嗚咽で声にならない声を発している。
---仕方がないんだ。
小野は、そう自分に言い聞かせたが、それを奈美が素直に受け入れられるはずはなかった。
奈美も、いくばくかの心積もりはしてあった。
夫の顔色が甚だしく悪くなっていたのだ。
不思議に思わないほうがおかしい。
「大丈夫?」
奈美がそういったとて、小野は何も話してはくれなかった。
それは、頑なに何かを拒むようでもあり、また思いとどまるような険しい顔もみせていた。
---何か心に障りがあるのかしら。
しかし、奈美はそれほどまでに思い悩んでいるとは思わなかった。
まさか、自分のかけがえなのない息子、まときを手放してくれ、なんて。
うっうっ、と奈美の嗚咽は続く。
後ろから、小野が身体をやさしく抱きしめる。
小野にはかける言葉が見つからなかった。

男が車にエンジンをかけた頃には、雪がちらほらと舞い始めた矢先だった。
先に車を暖めるために、男は駐車場へと走った。
今朝まで降り続いていた雪が、まだどっしりと厚く野道に覆いかぶさっている。
(寒いな。)
吐く息が白く、手袋を填めた手をこすりながら、男は空を見上げた。
うっすらとした雲間から、鈍い月の光が漏れていた。
この月の光で、足元を微かに照らしてくれる。
振り返ると、後ろには点々と、---それは男の足跡であるが、続いていた。
そうして、男は車までたどり着くと、エンジンを暖めるしばらくの間を、肩を揺らしながら待った。

あたり一面雪に埋もれたこの場所は、春には緑で覆われた過ごしやすい場所である。
望月のような湖の畔に、桜の木が多く植えられており、
屋敷までの一本道を、この桜が招いてくれる。
鳥はさえずり、色とりどりの花も咲き乱れる。
大変美しい場所であるのは、ここにはあまり人が出入りしないからかもしれない。
街から少し外れているこの場所は、国道からそれた山奥にひっそりとたたずんでいる。
ここから見える景色は、全て四条家の所有なのだ。
屋敷から見える、フタコブラクダのような山も、連なった五連山も、全てである。
故に、この私有地に関係者以外、---たまに迷い込んだ奇特な者以外は、
出入りすることはありえなかった。
それも、今では雪で全て覆われているのだが。

男は、懐中時計を取り出し、時計の針を見つめた。
寒空の中、エンジンが温まるにはしばらく時間がかかる。
バックミラーをチラリと見やり、まだ居ぬ後部座席を認めた。
そこは、これから人を乗せるためか、そもそもそうなのか、
キチンと整理されている。
塵一つ落ちてはいない。
冷たい空気が、男の鼻をくすぐる。
吐息には、ため息も幾ばくか含まれていた。
(随分遅くなってしまった。)
男は、握っていた時計に目をやり、ポケットにしまいこんだ。
コンコン
叩かれた窓を男は見やった。
そこには、若い女がしゃがんで男を覗き込んでいる。
「秀信さん、これを召し上がってください。」
秀信と呼ばれた男は、少しだけ頭を下げる。
「まだ、時間がかかるんでしょう?」
そういうと、女はまだ湯気が出ている握り飯を秀信に手渡した。
女は、白い息を吐きながら、微かに笑んだ。
「ありがとう。」
秀信は、手渡された握り飯を眺めた。
「じゃあ、私は戻りますね。くれぐれもお気をつけて。」
そういうと、女は雪道を転ばないよう気をつけながら走って戻っていった。
そこに微かに香水の匂いを残して。

「昌子様、どうぞ。」
表玄関へと車を運んでいた秀信は、後ろのドアを空け、昌子と呼ばれた老婆を誘った。
「ありがとう。」
昌子は、両手に抱えたものを大事そうに、車内へと運ぶ。
バン、と秀信はゆっくりドアを閉め、運転席へと戻る。
玄関には、二人の人影がある。
一つは、この家の主、もう一つは先ほどの女性。
秀信は、軽く会釈をすると、ゆっくりと車を走らせた。
雪は、またちらちらと降り始めていた。
「今日は、冷えるわね。」
昌子は、両手に抱えたものを落とさないように細心の注意を払う。
「そうですね。」
秀信は、ルームミラーで昌子の顔を確認する。
昌子は、抱えたものを、覗き込むように見入っている。
秀信は、できる限り振動が起こらないように車を走らせる。
昌子の抱えたものに影響を与えないように。
「この子は、四条家に相応しい子に育つでしょうかね。」
秀信は、無言のまま頷く。
きっと、とルームミラーをちらりとみて、視線を戻そうとしたときだった。
ピカッと正面からライトが秀信の目を奪う。
先ほどまでの薄明かりの中、急に視野が光に包まれた。
一瞬ぐらりと車が揺らめく。
「大丈夫?」
昌子は子供をぎゅっと抱きしめて、秀信に叫ぶ。
その力でか、子供が泣き始めた。
大丈夫、そう口にする余裕もないほど、次の対策を取るのに時間がなかった。
なぜなら、秀信が運転する車めがけて、車が突進してきているからだ。
その勢いは、こちらが上り坂で、一方相手側は下り坂であったため、
また、雪によりブレーキの効き目も悪かったため、
秀信の視野が、数秒光に奪われていたため、
様々な条件が重なり、気づいたときにもう避けることもできないほどの距離だった。
秀信は、接近する車を避けるために、大きくハンドルを左に切った。
ギュッとハンドルを握りしめる秀信。
間一髪、秀信は衝突を避けることができた。
しかし、それだけでは終わらなかった。
車を避けた先には、今度は人影が目の前に迫っていた。
左手には岩、目の前には人影、秀信はブレーキを踏んだが間に合わず、
唯一残された道、右の方へと大きくきった。
車は、一瞬左の壁に触れ、右に大きく跳ね飛ばされ、そのままガードレールの外へと飛ばされた。
それは、秀信達が出発して30分程過ぎた頃のことだった。

ツ・・
秀信の腕に激痛が走った。
暗闇の中、不安定な場所に手を指し伸ばし、
僅かに命を繋いでいるだけだった。
気がつけば、秀信は車の外に投げ出され、
崖の突き出た木に服を引っ掛けた状態でぶら下がっていた。
身体は夜の冷たい風に大きく揺れている。
下から薄暗い黒煙が昇っているのが見える。
「クッ」
秀信は激痛の走る左腕を投げ出し、右手でしっかりと突き出している木の枝を掴む。
慎重に、確実に。
崖下のことを気にせずに。

ザクッザクッザクッ
白い雪の上を力なく歩く。
小野は、ほうほうの体で崖の方へと駆け寄った。
何度も何度も転びかけた小野は、今日の雪が予想以上に深いことに気がついた。
---しまった。
彼は心の中で何度もそう叫んだ。
それは、焦りにも苛立ちにも似た感情。
胃の中が熱くなっていくのを小野は感じた。
タイヤの後が、道のないがけ下へと続いているのが薄明かりに照らされていた。
これが、小野の現実であった。

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