Chance/チャンス

久しぶりに来た町は、もはや私の知っている町ではなかった。
古い建物は取り壊され、新しい建物が立ち並んでいる。
この大きな道だけは、昔のままのようだった。
ただし、今ではこの先にできた新しい道路に取って代わられているようだが。
そう思いながら、私はこの道を歩いた。
一歩一歩、私が歩いてきた道を踏みしめながら。
どのくらい歩いただろうか、子供達のはしゃぐ声が聞こえてきた。
そこは、新しい装いの町には似つかわしくない、寂れた建物だった。
「学校か。」
もはや、子供達の遊び場とかしたそこは、あの頃と変わらずそこにあった。
そういえば、取り壊されるという話を聞いたことがあったな。
私は、子供達を眺めながら、その建物へと入っていった。職員室の前を通り、階段を、一つ、二つ昇ると、左手に何か黒いものが動いた気がした。
私は、なんとなくそれが気になって、その黒いものの後を追った。
影だったのだろうか、錯覚だったのだろうか、
しかし、私を導くように動く黒いあとを確かに追っていったのだ。

そこには、どこか見覚えのある部屋があった。
部屋の中を覗いても、誰もいない。
私が追ってきた、黒いものはそこにはなかった。
私は、一歩また一歩と部屋の中央へと入っていく。
そこに置かれた、大きな机。
触れてみると、しっかりとした木の感触。
ちょうど窓ガラスがその机を照らしているようだった。
私は、疲れていたのであろうか、椅子に腰かけた。
「ここなら、いいか。」

ちょうどその時、部屋の入り口に人の気配がした。
みると男の子だった。
どこか泣き出しそうな表情。
しかし、眼は私のことをしっかりと見据えていた。

「どうしたんだい?」
私は、彼の視線をしっかりと受け止めた。
こういう眼をみたのはどのくらいぶりだろうか。
彼は、唇をかみ締め、ひざの部分を指差した。
みると、薄っすらと血が滲んでいる。
「転んだのかい?」
私は、ハンカチを取り出し、しばらく考え、彼の側へと近づいた。
そばによると、彼はとても小さかった。
私はしゃがみこみ、彼の頭を軽く撫でた。
「大丈夫だ。かすり傷だな。」
私は、膝についている砂を手で払いのけた。
しかし、そんな時でさえ、彼は泣かずに唇をしっかりかみ、
痛みを堪えていた。

よくみたら、彼の服も砂まみれだった。
パンパンと服についた砂を払いのけた。
彼は、一言もしゃべろうとはしなかった。
私は仕方なく、彼の頭を撫で、また椅子に腰掛けた。
私に子供がいたら、こういうことをしていただろう。
今になって、こんな気持ちになるなんてな。
「殴ったんだ。」
彼は、握り締めた拳をみながら私に言った。
「ぼく、あいつを殴ったんだ。」
しかし、彼はとても寂しそうだった。
少年は、ぽつぽつと話し始めた。

「ぼく、あいつのことが嫌いじゃなかったのに、殴ったんだ。」
我慢していた涙が零れ落ちた。
「あいつ、ぼくが新参者だっていって、仲間にいれてくれなかった。
だから、ぼくは遠くで眺めていたんだ。
でも、急にみんなでぼくを囲んで、突っついてきたんだ。」
涙がぽたぽたと床に零れ落ちた。
「我慢してたんだ。でも、あいつ、ぼくの服を汚したんだ。
お母さんが、一生懸命作ってくれたこの服を汚したんだ!」
涙を拭っても、拭っても、溢れる涙は止まらなかった。

それは、どこか懐かしい思い出だった。
私も遠い昔、同じような経験があった。
仲間はずれにされ、苛められた。
そんな人生をこの拳で変えてしまったんだ。
人生を変えるのは、この拳だと信じていた。
そして、私はここまできてしまった。

「きみは、これからどうするんだい?」
私は、少年を眼をみた。
彼の眼は赤くはれていた。
しかし、しっかりと私の顔を、視線を受け止めた。
「もう、ずっと仲間はずれになるのなら、学校になんか行きたくない。」
彼は寂しそうにそう呟いた。
学校にいかなくなれば、ろくでもないことに巻き込まれてしまう。
せめてこの子には私と同じ人生を歩ませないでおきたい。
「学校にいきなさい。」
私は彼に言い切った。
「きみは、もう今までのきみじゃないんだ。
だから、勇気をもって学校へ行くんだ。
きっとみんなが仲間にいれてくれるから。」
まるで自分自身に言い聞かせるように。

しばらく考えた後、彼は静かに頷いた。
「わかったよ。」
もう、彼は涙を流してはいなかった。
「そうか。」私は静かに頷いた。
彼は、部屋から立ち去ろうとして、再び私の方へと振り返った。
「おじさん、死んじゃうの?」
一瞬、時間が止まったような気がした。
まるで、私の心の中を覗かれているようだった。
「なぜだい?」
彼は、寂しそうな顔をしていた。
「ぼくのお父さんも、死ぬ前にそんな顔してたから。」
私は言葉につまった。
もはや、死ぬ覚悟はできていた。
「おじさんも、だれかにいじめられてるの?
おじさんがぼくに勇気をくれたんだ。
おじさんに勇気が足りなくなったら、ぼくの勇気をあげるよ。」
私は、泣いていた。
もう泣かないと決めていたのに、ぼろぼろと涙がこぼれた。

彼は私のところまでやってきて、ポケットからハンカチを取り出した。
小さな手に握られているハンカチを、私にそっと手渡した。
「ありがとう。」
私は、もう一度彼の頭をぽんぽんと軽く撫でた。
「じゃあね。」
そういって少年は、その場を走り去っていった。
オレンジ色の光が、部屋中を包み込んでいた。
私は、ポケットにしまいこんでいたピストルをついに使うことはなかった。
ハンカチで、涙を拭った。
そして、ふとハンカチに文字が書かれていることに気付いた。
私と同じ名前だった。

「校長先生、もうお着きだったんですか?」
私は、懐かしいあの部屋にいた。
「そういえば、先生はこの学校をご卒業されたんですよね。」
「ええ、遠い昔に。」
私は再びこの部屋に戻ってきた。
私の運命を変えたこの部屋に。

フォローする